40代からの博士課程留学

41歳でオーストラリア・メルボルンで博士課程留学(社会学)を始めた自分、現地小学校に通う子供のこと、家族での海外生活などを綴る。2023年3月帰国、フルタイムで働きながら博論執筆中。

博士論文を提出した

昨日、2023年7月28日 15:25 に博士論文を提出した。正式に博士課程を始めたのは2020年2月3日。それから約3年6か月。大学が決めたDue dateにギリギリ間に合った(と言っても実際には4年まで延長可能なので、延長する学生の方が多い)。2020年2月、コロナウィルスが世界にじわじわと影を落とす中で始めた博士課程。その時には3年半後、酷暑の東京から論文を提出することになるとは想定していなかった。

 

博論提出しても何の感動もない画面

提出はこの週末にすると決めていた。念のため、昨日金曜日は年休を取得。金曜日に提出作業を開始して、終わればよいし、終わらなかったら土曜日に提出するつもりだった。金曜日は朝から家で最後の確認。前回の記事に書いた校正(外注)の指摘事項で迷うところがあったので、指導教官に相談したら、直さなくて良いとの見解だったので、そういったところを一つずつ見ていった。

 

次に実施したのはAcknowledgmentの修正。これは本編とは別に書いていて、一昨日に急ぎ、別の校正会社に見てもらうことにした。その結果が同日中に戻ってきたので、最終チェック。私の言いたいことをきれいな英文に直してくれていたけど、伝えたいニュアンスまで消えてしまっている気がして、あえて取り入れない修正もあった。ネイティブ的にはいまいちな文章でも、Acknowledgmentは自分の言葉で残したいから。

 

Referencesのフォーマットも整えた。ReferencesはEndonoteを使っているから大きな手間ではない。とはいえ、博論を書いている間に、APA6thがAPA7thになって、微妙な違いをアップデートしたり、引用した時にはOnlineでの先行配信だった論文が、いつのまにかちゃんとPublishされていて、論文のIssue番号、Volume番号を追加したりとか。Publisherの名前や所在地に大文字小文字が混ざっているところを直したりとか。地味に時間がかかったが、一つずつ修正。Endnote上で発覚したが、博論に使った参考文献は329件。思ったより多かった。

 

この辺りでいったん昼食。今は子供たちが夏休みに入っていて、家にずっといる。友達(男子)が何人も来て家でナーフ(スポンジの玉が入っている鉄砲のおもちゃ)を打ちあったり、ドタバタうるさいのが常だが、今日だけは友達を呼んでくれるな、とお願いしておいた(逆に仕事の時は多少うるさめでも何とかなってしまう)。

 

午後になったら、急に内容のことが心配になってきて、Findingsの2章とDiscussionの1章をじっくり読み始めた。そうしたらなんとミスを発見。私の研究は日豪16社のケーススタディだが、分析がやや複雑で、ベン図を使ったり、表形式で企業を分類し、説明している。投稿論文を書いたり学会発表する過程で、つじつまが合わない分析を見直したりしているうちに、博論の当初ドラフトの内容と少し変わった点もあり、それを博論にも反映したつもりが反映しきれていなかった箇所があった。危ない危ない。

 

Table of ContentsやList of figuresを何度もアップデートしてずれがないことを確認した。PDF化して全体を見ては、またWordの方を直して、というのを5回も6回も繰り返した。PDFにはちゃんとしおりも入れて、我ながらいい感じに仕上げられた。80,000 wordsの制限に対して、75,000 wordsと少し。ダブルスペースで約300ページとなった。

 

本当はもう一度最初から最後まで読み通してから提出したかったけど、もう疲れてしまっていたので、送ることにした。大学のThesis submissionのルールを熟読。そしてプラットフォーム上でAuthor Agreementを作成。ここで迷ったのが、Embargoをするかどうか。Embargoとは日本語でどういうのかよく分からないが、一定期間、博論を非公開にする手続き。コマーシャルバリューが高い場合や著作権の懸念がある場合(例えば博論を書籍として出版する人など)はこれを選ぶらしく、私がいたPhD部屋の友人は立て続けにEmbargoを3年で出したと言っていた(一人は文学、もう一人は考古学専攻)。

 

私の場合、特にEmbargoを適用する目的は無いように思えたが、念のため指導教官にメールして聞いてみた。Embargoをかけなくても良いか、Thesisが受理されたらOpen accessにして良いか。両方OKだったので一番オープンになる選択肢にしてみた。ちなみにこのAuthor Agreementのパートは一度選ぶと変えられないらしい。

 

その次にThesisをアップロードする画面が出てきた。個人情報や所属先などを入れることは知っていたが、知らなかったのは100 wordsのlay language(専門用語を使わない)で博論の概要を書く必要があること。Abstractから適当に引っ張ってきて貼り付けた。いよいよ提出!

 

といっても、まずは正指導教官のところに情報が飛び、正指導教官がオンライン上で承認する必要がある。それをDue dateまでに終えるのが必要。なので、自分が提出したら、すぐに指導教官にメール。締め切りである8/3までに承認してください、とお願いした。指導教官はパートタイムで働いていて、確か月曜休みだし、8/3から学会でアメリカに行くので、結構ギリギリのタイミングになってしまった。飛行機に乗っているタイミングじゃなくて良かった。

 

すぐに返事が来た。私と一緒にワークできてよかった、私と私の研究からたくさんのことを学ぶのは楽しかった、と言ってもらえた。そして日本で会えたらいいね、と。なんかお別れのあいさつみたい。実際、日本で会うことなんてあるかいな。私は無事に博士号が取れたら卒業式に出席するためにメルボルンを訪れるつもりなので、その時に会えるはずだけど。。でも先生はセミリタイヤしていて、故郷のNSWに戻るようなことも言っていたから、ひょっとして来年はもうメルボルンにはいないのかもしれない。

 

副指導教官は先月Associate ProfessorからProfessorに昇格。多分私とほぼ同い年なので、オーストラリアの大学の中ではProfessor昇格は早い方だと思う。色々社会人として「うーん」という部分はあるけど、人間性はあたたかい人。住所を教えてくれ、と言われたので、何かカードでも送ってくれるのかもしれない。そして最後の最後までネイティブの英語でメールを送ってきた。

while I can only speak from the periphery given the lion's share of supervision fell to 正指導教官, you have been an excellent PhD student and a dream to supervise. 

Lion's shareって言葉、初めて聞いた。というか、こういう英文が書けるようになるとネイティブレベルと言われるんだろうな。かっこいいなあ。副指導教官、自分があまり(というかほとんど)指導できていないことを認めて、最後に褒めちぎってきた(笑)。でも日本に帰国した今となっては、こういうオージーのノリが懐かしい。

 

いざ提出してみて、自分の中で達成感は特にない。それは帰国してからの4か月、博論に使った時間がとても少ないからだと思う。朝食前、早朝の1~2時間と週末の数時間ずつ、細切れで博論に向かい合ってきた。起きている間に一番時間を使っていたのは間違いなく仕事だから、博論を提出しても「あー、ついに終わった!」という感覚も特になし。あえて言うなら、少し寂しいような気持ち。

 

私の気持ちは次に控えているタスク、4月に提出した投稿論文のRevisionに向いている。実際、先週Proofreadに出している間に修正に着手した。それをお盆休み中までに何とか片づけて、アメリカから戻ってきた指導教官に送り付けて、9月中旬までに再提出しなければならない。そしてその後は、12月に締め切りがある別のジャーナルのSpecial issueに向けて、また投稿論文を執筆したいと思っている。こうやって、しばらくはまだ研究とつながっている自分がいる。

 

夕方、メルボルンにいるPhD仲間何人かに、博論を提出したよ、とメッセージしたら、みんながCongratulations!ゆっくり休んで、お祝いして、と口々に言うので、そうか、これはお祝いすべきことなのか、と気が付いた。とはいえ、家族にとっては私が博論を提出したことは何の関係もなく、普段通り夕食は作らなければならないし、私自身、夕食後はオンライン英会話レッスンを予約していたから、外食には行けない。何か少しでもSpecialなことを、と思って、近所のセブンに1人で行ってきた。

 

博論提出記念にセブンに行って好きなものを買った(クリームぜんざいは甘すぎて失敗)

長くなったので今日はここまで。時間的にはあまり変わらないが、精神的には少し余裕ができたので、ブログの記事ももう少し頻度を上げてアップしていこうと思う。