40代からの博士課程留学

41歳でオーストラリア・メルボルンで博士課程留学(社会学)を始めた自分、現地小学校に通う子供のこと、家族での海外生活などを綴る。2023年3月帰国、フルタイムで働きながら博論執筆中。

研究の難しさに直面中

今週月曜日に博論のDiscussionの最初のセクションのファーストドラフトを指導教官に送付した。そうしたら、昨日(木曜日)の夜にフィードバックが来た。指導教官は今、カンファレンスに出るためにカナダにいる。それなのに見てくれたようでありがたい。ファイルを開いたらたくさんのコメント…。来週打ち合わせしようと言われた。これはDiscussionの章の出来が悪いというサインである。

 

今週月曜日に投稿論文のリジェクトのお知らせが来て、博論のDiscussionの章もダメ出し。当たり前だがこれら2つはリンクしている。何が足りていないのかも分かってきた。でもどうすれば良いのか、まだ整理するところまではできていない。

 

fourty.hatenablog.com

 

リジェクトを受けた査読結果はしばらく寝かせておきたかったけど、Discussionのチャプターを書き直すにあたって、そんな余裕は言ってられない状況になってしまった。重い腰を上げて、今日、査読コメントに向き合った。前回の記事を書いたときには流し読みしかしておらず、メールにはエディターのレビューコメントと査読者2名のレビューコメントが表示されていたが、ジャーナルのシステムにアクセスすると添付書類がある。開いてみたらもう一人査読者がいたことが分かった。私の投稿論文は4人もの学者にレビューしてもらったことになる(エディターも通り一辺倒ではないコメントをくれていたのでレビューにカウントした)。

 

ワードで添付されていた査読者のコメントに、ポジティブなことも書かれていることが分かった。テーマ設定やアプローチについては良いらしい。Thus, there is much to like about this paper. 私の論文が好きと言われて一瞬泣きそうな気分。この査読者は私が学生であることを見抜いているのではないかという気がしてきた。

 

共通して悪いところ(リジェクトの理由になったところ)は大きく分けて2つ。一つは理論的な貢献のあいまいさ、もう一つは手法の説明不足。手法の説明不足は4人中2人から指摘されていた。これはある程度テクニカルに対応できる(というかそれしかできない)。問題は一つ目の理論的な貢献のあいまいさ。これは全員に指摘された。なんなら、Discussionの章に対するフィードバックで、指導教官からも指摘された。

 

これが実務者上がりの博士学生が苦労するポイントなんじゃないかと思った。私は研究を始めたばかりの時、理論が何のためにあるのか、学者がなぜあーだこーだと、実務者には既に明らかなことを机上で議論しているのかよくわからなかった。でもこれをクリアしないと、ペーパーもアクセプトされないし、博論もダメだろうというのは分かる。

 

fourty.hatenablog.com

 

もう一つ、難しいなと思ったのはタイミング。私は自分が実務者として自分が疑問に思ったことをそのまま研究のテーマにしている。実務者だったときの私には知る由もないが、地球の反対側(アメリカ)で学者たちも同時並行で研究を進めていたらしく、私が博論を進めている間に、先を越されていくつかの理論的論文が出版されてしまった。今回、査読者からは、具体的にこれらの理論的論文で言われていることと比較して、私の実証研究で分かったことは何が新しいのか?と問われた。

 

時系列的には私の博士課程は以下のような流れで動いてきている。

2018年 実務を通して大きな疑問が湧いた⇒大学院に行きたいと思うように

2019年 博士課程のためのリサーチプロポーザル作成、博士課程入学許可

2020年 博士課程開始、文献調査(博士課程1年目)

2021年 データ収集、カンファレンスペーパー執筆(博士課程2年目)

2022年 学会発表、投稿論文執筆、博論執筆(博士課程3年目)

 

レビュアーが指摘した論文は、それぞれ2021年と2022年に出版されている。もちろん私は両方読んでいる。実は2021年に出た方はまさにデータ収集をしているとき(分析前)にGoogle Alertで流れてきてびっくりした。私が言いたかったことを半分くらい言われてしまっていると焦りつつも、この論文は理論的研究だから、私の実証研究はサポート側に回れるかもしれないと思った。

 

そうこうするうちに、2022年にかなり私の研究と近い理論的研究論文が別の学者から出された。この時も動揺。でもやっぱり理論的研究だから私の実証研究とは違うし、当然ながら論文の最後には実証研究の必要性やモデルの詳細化の必要性を訴えていた。2021年の論文も2022年の論文も著名な学者が書いており、特に2022年の方はハーバードビジネススクールの教授の論文で、学術界だけでなく実務界へのインパクトも大きい。自分が言いたかったかったことを先に偉い人から言われて全部持っていかれた感。当たり前だが理論の深さや文章の洗練度合いなどレベルは全然違う。でも、問題意識や本質的な部分はほとんど同じ。

 

私は別に流行りに乗ったつもりはなく、自分が実務者として感じたことをテーマにしただけなのに、この3年程でテーマが流行りに流行ってバズワード化してしまった。そのことによって、狭い視点でいうと博論がやりにくくなっている。結果的に流行りのテーマを扱うことになり、いじわるなANZ学会のレビュアーに(こいつ、安易に流行りに乗りやがってという気持ちで)Bullshitと言われてしまったりもする(まだ根に持っている)。もちろん、自分だけがこのテーマを扱っているわけではないし、世界を見渡せばひょっとして私とかなり似通った研究を今まさに進めている博士課程の学生がいる可能性だってある。

 

バズっているテーマを(結果的に)扱うことになったが、もちろん悪いことばかりではない。注目され始めた段階で、情報がまだ少ないため、問い合わせを受けることもちょこちょこある。先日はAoMのカンファレンスペーパーに目を付けた日本の金融庁の関係者からコンタクトがあり、フルペーパーをシェアした上でZoomで情報交換した。オーストラリア企業から声をかけてもらったのもおそらくテーマ自体の引力があるのだと想像する。

 

そんなことがあると一瞬浮かれたくもなるが、今はそんな気分ではない。私の理論的な力は向上していないし、最終的に博士に足る質までもっていけるのかがわからない。大学から3年間の学費と生活費、トータル1,500万円以上もらっているが、私の研究に1,500万円以上の価値があるのか、自問自答したとき、今は自信をもって答えられない自分がいる。Theoretical contributionという言葉に最初から最後まで苦しめられている。Theoreticalな武器を身につけたい。