今週の木曜日、大幅に書き直した投稿論文がやっとアクセプトされた。レビュアーは5名、トータルのコメント数は34。レスポンスレターだけで20ページを超えた…。5名中2名がリジェクト、3名がMajor revisionの判断で苦しいところだったけど、こちらの粘り勝ち!提出したのが先週の土曜日で5日後にAcceptedの返事がきたので、最後はEditor判断でOKが出たのだと思う。ありがたい…
この論文は、博士課程の最後のパートの内容をベースにしているが、内容が複雑になってしまったことと、博士論文を書いてから今の間に新しい理論が出てきたりして、情報が古くなってしまったこともあり、かなりの書き直しを強いられた。先日のブログにも書いたが、NVivoを再度開いて、コーディングも見直した。やって良かったと思う。最初のつぎはぎな感じよりは、結果的にまとまったものとなった。査読者と編集者に感謝。
歴史を紐解くと、1年半かかっている。
ジャーナル① IF: 6.3
2023年12月 Submit
2024年7月 Reject (3名の査読者+編集者からコメント)
ジャーナル② IF:12.5
2024年12月 Submit
このジャーナルはIFがこの数年でうなぎのぼり。ジャーナル①の方が歴史があるけど、IF戦争にさらされている学者たちが投稿しまくっていることで、どんどん難易度が上がっている。公式サイトで公開されているAcceptance rateは8%。さすがに厳しかった。
ジャーナル③ IF: 4.8
2025年1月 Submit
2025年3月 Major revision(5名の査読者)
2025年6月20日 Resubmit
2025年6月26日 Accepted
ジャーナル②と同じ出版社の姉妹誌ということもあり、そのままスライドで提出。3月にMajor revisionの返事をもらった時は、5名の査読者に仰天し、ため息しか出なかったけど、仕事をしながらなんとかここまで頑張った。博士時代の正指導教官と共著者として発表する最後の論文だったし、ここまで来たら最後までやるしかなかった。
5月下旬に先生に修正版とResponse letterを送って、先生がその10日後に返してくれた時の言葉。
You've done a great job to address all the comments of the multitude of reviewers. You must be exhausted after that effort.
実際、exhaustedまではいかなかったけど、こういう言葉をかけてもらうのは嬉しい。平日は会社員として仕事していたり、思春期特有の難しい子育てをしていたりする中、論文は私の生活のほんの一部なので、良くも悪くも博士学生の時のように深く関われない面もある。ジャーナルとしての格は多少下がってしまったが、ゴールデンウィークや週末の時間を使いながら、取り組んできたのが報われたことは素直に良かったと思う。
Acceptedのお知らせを受けたら、LicenceとOpen accessについての手続き。所属先のメルボルンの大学が出版社と包括契約しているおかげで、無料でOpen accessにできる。これはほんとにありがたい。久しぶりに大学のLibraryのページを見たら、Open accessにできる契約を結んでいる出版社がさらに増えていて、今やほとんどの出版社をカバーしているように見える。私の2本目の論文は2023年にEmerald社のジャーナルから出たけど、当時はOpen accessの包括契約をしていなかった。今年から始まったみたいでちょっと悔しい。
大学はOpen accessの契約にお金をかけることで、所属する研究者が発表する論文がより読まれやすくなり、それによって引用も増え、大学のランキングを押し上げることにつながるから、そこにかなり投資しているのではないかと推察。現時点で1万誌以上のジャーナルが対象らしい。公開情報なので、大学の宣伝のためにリンクを貼る。
Read and Publish agreements - Library
そんな手続きをしているところで、Editorial officeのマネージャーから別のジャーナルの査読依頼が舞い込んできた。実はジャーナル②と③だけでなく、私の2023年にPublishされた1本目の論文のジャーナルも姉妹誌となっている。そのジャーナルへの投稿論文。日本を対象とした調査なので、おそらく日本の大学に所属する先生が書いたのだと思う。ジャーナル投稿と出版の仕組みを回すためには、自分が論文投稿しているうちは、査読は出来るだけ断らないのが筋なので引き受けた。仕事増えちゃったけど仕方がない。
論文が手を離れてからは、7月の国内学会発表の資料に手を付けていたけど、それを早めに終わらせて、8月が締め切りの査読に着手する必要が出てきた。11月からの非常勤講師の授業の準備ができていないのがだんだん心配になってきたけど、目の前の仕事から片付けるしかない。
ついでに、本業の会社員の仕事に関しては、自分が理由ではない完全にもらい事故的な事案があり、そこにお節介半分、仕事半分で介入することにしたため、先週は急遽出張が発生し、予定外に忙しくなり疲れた。ただ何とか1週間乗り越えて振り返ってみたら、その件に対する自主的な介入により、シドニーにあるオセアニア事業の社長に顔と名前を売る機会を得ていた。これは予想外の出来事だった。
対応のために出張した先で、日本の社長(日本に来る前はオセアニア事業の社長をしていた)がオセアニア事業の社長を私に紹介してくれて、握手をして挨拶程度の話をした。出張先でのイベントの写真をiphoneで撮っていたので、オセアニア事業の社長が写っているものを翌朝の通勤時に社内のチャットで送付。出社したら東京のオフィスに本人がいたので、「さっき写真送ったけど見てくれましたか?」と声をかけて少しだけ雑談。家族と一緒にメルボルンに留学していたこと、2020年から2023年の間にロックダウンに巻き込まれて大変だったことなども伝えられたので、多少は印象に残ってくれたらいいな。
そんな会話をして調子に乗った私は、自席に戻った後、たまたま近くにいて、最近入社したオーストラリア(シドニー)で働いていたことがある日本人の同僚に「さっきオセアニア事業のトップに売り込みしてきちゃったー!」と自慢。彼女から「え、ずるーい!」と言われたので、「私が紹介してあげる!」と図々しく、もう一度オセアニア事業の社長の席に行き、「彼女もオーストラリアに住んでいたので、紹介させてください」と同僚を接続。同僚からは感謝された。
オーストラリアに再び住むという目標についても粘り強く、どこにチャンスが転がっているか分からないから、できることをしていく。年を重ねるごとに図々しく、強くなっている自分がいる。