40代からの博士課程留学

41歳でオーストラリア・メルボルンで博士課程留学(社会学)を始めた自分、現地小学校に通う子供のこと、家族での海外生活などを綴る。2023年3月帰国、フルタイムで働きながら博論執筆中。

コロナとともにある留学生活

2週間以上ブログをさぼってしまった。実はこの間、ついに(というべきか)コロナウィルスに感染。ブログを書くこともできたけど、色々な事務手続き、体調の変化、気持ちの整理などに時間がとられた。タイトルだって、なんて書いたら良いのか分からないくらい。でも正直な気持ちは、「私の留学生活、コロナにとことん邪魔をされている」ということ。

 

振り返ってみると、1年目、博士課程が始まって2か月も経たずにロックダウンが始まった。ロックダウン自体は研究生活に直接的な影響はないように見えた。何が大変だったかというと、小学生の子供2人が学校に行けなくなり、平日は毎日4時間程度、まだ英語ができない子供たち、自立学習ができない子供(次男は当時年長)の学習サポートと子守に時間がとられた。どこも旅行に行けないこと、外食できないこと、家族以外の誰にも会えず友達ができないこと、指導教官とはすべてオンラインのミーティングになることは我慢できても、留学の目的であり本業である研究時間が子供のホームラーニングによって奪われるのは本当にきつかった。そして2年目も同じことの繰り返し。この2年は本当に辛かった。よく耐えたと自分でも思う。

 

3年目、2022年になってオーストラリアはコロナ対策を180度転換。いわゆるWith コロナに舵を切った。コロナはそこら中にあったけど、学校はもちろんのこと、レストランや商業施設も閉じない。RAT(抗原テスト)を配りまくって陽性者は州政府への登録と自主隔離というやり方。国境も開いて留学生もたくさん入ってきた。大学も対面授業が開始となり、新しい友達ができた。そんな中、博士課程のハイライトとして、私は世界最大の経営学の学会(AoM)に発表を申し込み、受理された。ついでに日本の学会にも申し込み、これも受理。2週間の日本~アメリカ学会はしごツアーを予定していた。

 

どのタイミングでコロナになったのか。日本にいるときに陽性になり、東京で10日間の隔離生活を経験した。日本入国72時間前のPCRテストでは陰性だったので、メルボルンシドニーへの国内移動中、シドニー~東京への移動中、もしくは東京についてから感染したと思われる。東京では過去最大の感染者数を記録している時期であり、いかにも東京で感染したような気もするが、潜伏期間を考えるとシドニーで感染した可能性もゼロではない。

 

毎日の様子を書くときりがなくなるが、自分の記録のためにも日本到着からコロナ隔離生活まで日付ベースで振り返る。

 

7/29:夕方に日本到着、真冬のオーストラリアから猛暑の東京に。羽田から京急で都心まで向かい、ホテルに直行。疲れていたのでホテル1Fにあるセブンイレブンで夕食を調達してホテルの部屋でリラックス。翌日のプレゼンに備える。

 

7/30:朝イチで学会会場に移動。マスクしながらのプレゼンに酸欠になりそうだった。外は35度を超える猛暑、中は冷房ガンガン。オンラインでしか会ったことがない人に対面で会えたこと、何人かの先生や学生にポジティブなコメントをもらえたことが嬉しかった。特にお世話になっている部会長の先生に「研究、頑張りましたね」と言われたときは報われた気がした。

学会の会場になった大学、立派な建物があった

7/31:早朝に頭痛。オーストラリアから持参したパナドールを飲んだ。その後、コロナを疑いオーストラリアから持参していたRATでテスト。陰性。身体がだるかったので、学会2日目はホテルの部屋からZoomで参加。午後になって元気が出てきたので外出。

 

8/1:朝起きて熱っぽいので、再び持参したRATを使って検査。くっきりと陽性。この日の予定は東京駅周辺で所属先の会社の上司とランチミーティングをした後、新幹線で実家に移動する予定だったが、もちろん両方キャンセル。急いで東京都や厚労省のHPでやるべきことを調べた。一般ホテルで外出しないで10日間の隔離生活を送るのは不可能と判断、療養ホテルに入れてもらうための手段を調べたところ、RAT陽性にもかかわらず、外出して病院で検査が必要とのこと(陽性者に外出を強いるとは信じられないルール…)。近くの病院にいくつか電話をかけるものの、RAT陽性の人は検査できないとの答え(でた、日本の縦割り、部分最適ルール)。ようやく検査してもらえる病院を見つけて、陽性者であるにもかかわらず外出。病院でもRATで陽性(当たり前)。保険証がないので自費で5万円(これは仕方ない)。

もともと両親へのお土産のつもりで持ってきたRATを自分で使用

8/2:朝から東京都に電話をしまくり。何とかして宿泊療養ホテルに入れてもらうよう交渉。つながらない電話に心が折れそうになりながらも何度かかけるうちにつながった。しかし日本の携帯電話がないと受付できないと言われたり、短期アルバイトスタッフなのか、話がうまく通じなくて難航。夕方になって別の職員らしき人から折り返しがあり、宿泊療養ホテルを手配したとのこと。翌日移れることになった。これまたつながらないJALの電話に何度もかけ、シアトルへの往復便のキャンセル(返金してもらえた)。シアトルのホテルもキャンセル(無料だった)。シアトル学会のチェアにも連絡(録画を流してもらうように依頼)。

 

8/3:泊まっていたホテルから徒歩5分程度のところにある宿泊療養施設にお迎えの車で移動。ビルとビルの間で薄暗く、気が滅入るようなホテルだったが文句は言えない。一泊4,000円程度の格安ビジネスホテル。でも食事の心配はいらないし、感染を広げるリスクも減るのでありがたかった。

 

8/4~8/9:宿泊療養施設で隔離生活。3食弁当を取りに行くときのみ部屋から出ることができる。20代~40代の人が多い印象だったが、0歳の赤ちゃん連れや小学生と母親の組み合わせもいた。弁当は病院食ではなく普通の仕出し弁当。味が濃く揚げ物が多い印象。トータルで弁当を20食以上いただいた。久しぶりに日本の弁当を食べられてありがたかったが、今はしばらく日本式の仕出し弁当はいらない気分。オーストラリアから余るほど持ってきていたRATを使ってみたら、8日目、9日目はまっさらな陰性。

宿泊療養施設で提供された標準的なお弁当

8/10:無事隔離期間が終わり、また徒歩で5分程度のところにある別のホテルに移動。往きと違ってスーツケースをゴロゴロ引きながら猛暑の中を歩いたが、開放感でいっぱいだった。隔離明け初めて行った娑婆の食事はホテルの2Fにあったコメダ珈琲のモーニング。実家に帰ったら行こうと思っていた目標が一つ達成できて大満足。午後は銀座で買いもの。日本食のおいしさ、日本の便利さ、トイレの快適さに感動。

コメダのモーニングが東京都心で楽しめるようになったとは

8/11:地下鉄に乗ってイトーヨーカドーまで買い出し。子供に頼まれていたこまごまとしたものや食品を調達。イトーヨーカドーで4時間買い物尽くし。ここでもきしめんと味噌どてという名古屋メシの店があったので入店。実家に帰れなかったのがよほど悔しかったようだ。ホテルのレイトチェックアウトプランを使っていたので、夕方にシャワーをしてから東京駅に移動。東京駅はコロナ前の賑わい(お盆休みの始まりだったから?)。でも成田エクスプレスはガラガラ。成田空港の店もほとんど閉まっていて、開いている2つのレストランに長蛇の列。ホノルル便と時間が近く、チェックインカウンターも混んでいたし、家族連れもちらほらいた。飛行機は往きと比べると混んでいたが、隣が空席だったので小さく丸まって眠ることができた。

 

8/12: 真冬のメルボルンに到着。到着した時の気温は10度。寒いけど元気があったので、夫に車で迎えに来てもらうのは断り、バスと電車を乗り継いで自宅まで自力で戻った(シティを挟んで空港と反対側に住んでいるので、1時間以上かかった)。

 

ざっと振り返るとこんな感じ。研究がらみや2年半振りの日本帰国で感じたことは別の記事に書くとして、コロナになってみて感じたこと、コロナへの向きあい方など今の考えを最後に残しておきたい。

 

メルボルンに住んでいて、子供たちの学校でも毎日コロナが出ているし、子供たちの間ではもはやコロナにかかっていない子の方が少ない状態。親も子供からコロナをもらい、多くの知り合いが感染していた状態なので、自分がコロナに感染すること自体は驚かなかった(もちろん感染しないに越したことはないが)。また日本でもコロナが増えていることはニュースから知っていたし、今回の旅で日本もしくはアメリカで感染する可能性も想定はしていた。

 

かといって、2年間ずっと文字通り閉じ込められていて学会に参加できなかった自分が、博士課程最後の年にコロナのリスクを理由に、対面実施が再開された国際学会にチャレンジしない理由はなかった。つまりリスクを承知でチャレンジしてみたら、今回は悪い方に転んでしまったという顛末になる。当然ガッカリはしたけど、自分の選択に後悔はしていない。なぜなら今回が私の人生の中で博士学生として国際学会に参加できる唯一のチャンスだったから。自分でできることはやった。でも外部要因によって目標はかなわなかった。

 

自分は物事(や人)の良い面を見るように心がけている。そういう意味で、今回、一番悪いシナリオは、コロナに感染していることに気が付かずに、コロナウィルスを実家に持ち帰り、70代の両親を感染させ、重症化もしくは最悪死に至らしめること。実家に移動するその日の朝にRATをして陽性が判明したので、RATをオーストラリアから持参した自分はラッキーだったと思っている。

 

二番目に悪いシナリオは、シアトルに移動してからコロナに感染(もしくは陽性が判明)すること。アメリカの医療システムは全くよくわからないし、知り合いもいなければ文化も社会システムも言語も日本とは違う社会の中でコロナになるのは不安だっただろうと思う。また、日程的にシアトルに行ってからコロナに感染すると、メルボルンに戻る日もずれ込んだはずなので、後々のスケジュールにも影響が出ていたはず。

 

今回の成り行きは三番目に悪いパターンだったかなと思う。なるならメルボルンでかかっておきたかったけど、それはもう自分にはコントロールできないことだから仕方がない。

 

最後に症状について。最初の数日は多くの手続きをこなすのに必死で気が張っていた可能性もあるが、あまり辛さは感じなかった。しかし症状発生後、5~7日目にひどい倦怠感が襲ってきて、コロナの恐ろしさを知った。この間、ふらつき症状が出たので、ホテルに常駐している看護師に連絡して血圧を測らせてもらったら、案の定、高血圧。普段はどちらかといえば低血圧だが、出産時に高血圧症状が出てから、自分はストレスがかかると高血圧になる体質であることが判明した。倦怠感と高血圧による眩暈で3日ほどは辛かったが、熱はなく、咳もほとんど出ない症状だった。

 

後遺症については、現段階では若干疲れやすく、眠たくなりやすいように思う。これはコロナのせいなのか、真冬~真夏~真冬という移動で体の自律神経が狂っているのか、はたまた旅の疲れなのか、しばらく使っていなかった英語を再び使う生活になったことによる脳への負担なのか、これらの複合的な作用なのか分からない。まだ集中力が100%戻ってきた感じはしないが、普通に生活できるレベルなので徐々に戻していければと思う。