40代からの博士課程留学

41歳でオーストラリア・メルボルンで博士課程留学(社会学)を始めた自分、現地小学校に通う子供のこと、家族での海外生活などを綴る。2023年3月帰国、フルタイムで働きながら博論執筆中。

GWは博論執筆+知多半島プチ観光

ずっとGWを待っていたのは、フルタイム会社員と大学院生の二足の草鞋を履く自分にとって、博論を書く時間がまとまって確保できるから。予定では、連休中日の平日5月1日と2日にみっちりやって仕上げるつもりだった。この2日間は会社から年休をもらっているし、子供2人は学校があるから。

 

博論に取り掛かり始めたのは4月30日の日曜日。最近の長男とのルーティンになっている、日曜朝のコメダ。パソコンを持って行って、コメダで最初の心理的ハードルを乗り越えた(フィードバックが返ってきたとき、最初にファイルを開けるのはいつも気が重たいから)。午後になって、夫が子供を見てくれている間に少しだけ取り組めた。でもそこで、ああ、これは2日間では終わらない量だなあと。実際、連休が明けた今もまだ終わっていない。苦戦している。

 

5月1日に久しぶりにフルタイム学生として5~6時間程度だが、博論に向き合って、一気に気持ちがメルボルンに戻った。その夜、「なんで私は今、日本にいるのだろう」「あのままオーストラリアにいるべきだったんじゃないか」と思った。4月の1か月間は、新しい生活、新しい仕事に慣れるために必死で、オーストラリアのことはあまり考える余裕もなかった。今、再び博論に向き合って、私のオーストラリア生活はまだ終わっていない、まだ終わらせられていない、と強く思うことに。

 

5月2日の朝起きて、以前メルボルンで仕事のオファーをくれた人にメールをした。日本に帰国したこと、日本の会社で担当している仕事のこと、博論はまだ終わっていなくて並行して続けていること、卒業は来年になりそうなこと、最近ジャーナルに論文が発行されたこと(Open accessってありがたい)。私の近況を一気にアップデート。そして、自分と家族はメルボルンに戻ってきたいと思っていること、日本企業の状況について何か知りたいことがあれば私に聞いてほしいということを伝えた。日本時間で朝6時(メルボルン時間で7時)にメールを送ったら、8時前に返事が来た。

 

アップデートしてくれてありがとう、あれから何人か追加で雇ったけど、ビジネスは拡大しているから皆忙しくしている。実は今年は日本企業にフォーカスしたイベントを開催しようかと思っていて、私に何かガイダンスを求めるかもしれない。またメルボルンで会えるのを楽しみにしている。という返事。内容もそうだけど、すぐに返事をくれたのが嬉しかった。また何かあれば連絡しようと思う。私のことは覚えてくれているようだ。

 

5月2日には長男の中学校で保護者会の予定があり、こんな時に保護者会入れてくれるなよ、と思いつつ、最初の保護者会だから出席した。それで午後の貴重な2時間がつぶれた。保護者会出るくらいなら論文を書いていたかったけど、もちろんパソコンを持ち込むのもおかしな親だから、そこは我慢して先生の話を聞いていた。

 

5月3日から7日までは、3年半ぶりに実家に帰省。もちろんパソコンもちこみ。今回はレンタカーで。実家では大体朝5時半~7時までと、午前or午後に2時間ずつくらい、博論執筆時間として何とか確保。せっかく連休中に帰省しているのに、40代にもなって実家の庭にある離れにこもっている私は変な子(親から見れば)、変な親(子供から見れば)、変な妻(夫から見れば)。母親からは「あんた、勉強好きだねえ…」とあきれられた。自分でもこんな連休の過ごし方は理想的ではないけど、今はとにかくやるしかないから。唯一の良い波及効果があるとすれば、GW明けに中間試験を控えた長男にも勉強を促すことができたこと(宿題がたくさん出ている)。社会人の私が勉強しているのに、フルタイム学生の長男が勉強しないのはおかしいよね、という感じで。

 

それにしても、博士号を取るのは楽ではない。もう9合目まで来ていると思うが、初めてのことだから分からないことが多くて、本当に少しずつしか進めない。もどかしい。研究をすることと論文を書くことはまた別の話。博論って、きっと一生に一度しか書かないと思うけど、なかなかのもんだな。勢いで博士課程に飛び込んだけど、勢いじゃないと始められない気がする。何が起きるか知っていたら、きっと怖気づいて始められないだろう。良かったのは、一番つらい山は越えたと分かっていること(3年目の審査の前)。あと少し頑張ろう、と山登りをしているときのように言い聞かせている。

 

実家にいるうちは、料理を母が、洗濯を父がしてくれたおかげで、私は家事から解放されて、毎日少しだけど博論執筆の時間が取れてありがたかった。家族と話していた時、両親から「いつまで今の会社で働くのか」と聞かれた。「本当はメルボルンに残っていたいと思ったけど、とりあえず復職した」と答えたら、父から「無給とはいえ休職していた手前、仁義というか、まあ一旦戻る方がいいわな」というようなことをさらっと言われた。

 

実際、復職して思ったのは、誰も私のことを待ってはいないし、「あれ、戻ってきたんですね」と意外そうに言う人もいたし、むしろ3年も休職していた人が戻ってきて、ポジションを作る側は迷惑だったりするのでは、という気もしていて、少しモヤモヤしていたところもあったが、父から「復職するのがよい」と言われて、気持ちがすっきりした部分がある。この親に育てられたから、私の価値観はこうなったんだろうな、と。

 

会社からはそれなりのお給料をもらっているから、きちんとその分は貢献できるよう仕事には真剣に取り組んでいるけど、本当にここでずっとやっていくのかどうか、まだ分からない。仕事は自分にとって新しい分野で、それが良い刺激になっていて、今はたくさんのことを学び、吸収している。それが次の何につながるのか分からないが、スティーブジョブスも、点はBackwardにしかつながらない、と言っていた。その通りだと思う。将来に向けて(Forwardに)点を置くことは出来ないのだ。You can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. だから今、heartやgutが言うことを信じてやるしかない。

 

最後にGWのお出かけで面白かったこと。

愛知の田舎の海に一泊で遊びに行った。泊まった宿の赤だしがおいしくて、宿の人にどこの味噌を使っているのか聞いたら、近くにある盛田酒造の味噌だと言っていた。そこは何とソニーの創業者の一人、盛田昭夫の実家。盛田さんって、愛知の人だったんだ。その古くから続く酒造の第15代目当主、かつソニーの創業者。もともとお酒を造っていたけど、その後味噌や醤油などの他の発酵食品にも広げて、手広くやっている。近くにあったので味噌を買いに行ったら、食事ができるスペースもあった。その隣に盛田昭夫のギャラリースペースがあって、マイケルジャクソンとの交流など、盛田昭夫さんの人生が詰まった展示は見ごたえがあった(無料)。味噌煮込みうどんも食べられてラッキー。赤味噌を買って帰った。愛知は自動車産業だけじゃない。知多半島にはミツカンもあるし、INAXも有名。

盛田 味の館 – 盛田

愛知県出身者なら誰でも知っている?「ねのひ」を作っている会社(奥に食事ができるスペース)

ソニーのルーツが赤味噌だったとは!(実際に創業当初、資金繰りに苦しむソニーに多額の支援をしたのは盛田家)

こんな愛知の片田舎から世界的な技術者かつ経営者が生まれていたなんて、地元出身者として嬉しく思った

また近くで潮干狩りもして、3キロ近くアサリをゲット。2日続けてアサリの酒蒸しと味噌汁(盛田の味噌を使って)を堪能。愛知の田舎、美味しくて豊かで楽しい。もし実家方面にいつか戻るなら、知多半島に住みたい。

アサリがザクザクとれた。1キロあたり700円と格安の値段(昔、千葉で潮干狩りしたときはもっと高かった)