40代からの博士課程留学

41歳でオーストラリア・メルボルンで博士課程留学(社会学)を始めた自分、現地小学校に通う子供のこと、家族での海外生活などを綴る。2023年3月帰国、11月に博士号取得。現在は東京にある外資系企業で勤務。

フランス~モロッコ出張 中編

11月に行ったフランスとモロッコ出張の続き。

fourty.hatenablog.com

 

パリに2泊して、今働いている会社の本社で1日中打ち合わせをした翌日、再びシャルルドゴール空港へ。エールフランスで3時間かけてモロッコマラケシュまで。パリの空港の時点で、明らかに同じ会社だろうという人たちがたくさん。ファミリーでもないし、友達でもない感じの人たち、全員同じ会社。日本からは上司と私の2人の参加だが、会議には本社があるパリだけでなく、世界中から参加者が集まる。同じ飛行機に30~40人は乗っていたっぽい。

 

人生初アフリカ大陸。こんなことが無ければモロッコという国に一生行くことはなかったと思う。飛行機はスペインやポルトガルの上空を飛んで、大西洋を南に。色々な風景が見えたが、高度を下げたところで赤茶けた街が見えてきた。

マラケシュの空港は比較的新しく、思ったよりも大きい。というよりやたらとだだっ広い。暇そうな職員が多数うろうろとしているのを見て、久しぶりに途上国来たなあ、と感じた。ここから先は、完全に会社のコントロール。オーガナイズされているようなされていないような感じで、12人ずつくらいがマイクロバスに乗ってホテルに。

 

道中見える景色は東南アジアのタイやインドネシアを思い起こさせる。ただ、高層ビルはなく、赤茶けた土地に低層の建物ばかりが続いていた。

 

目的地のホテルについてびっくり。超がつくほどの高級ホテル。外とのギャップがすごくて、ここは西洋の植民地で、私は何故だか支配側にいる、という感覚を強く持った。自分の持ち物が全部みすぼらしくて、ホテルのレベルと合わない。部屋もちょっとしたアパートメント以上の広さで、扉が2枚もあったりして、落ち着くまで時間がかかった。

ホテルの廊下

ホテルの中にあるよくわからない場所

立派な部屋


到着後、Welcomeパーティ。ちなみにこの後、三日三晩朝から会議、夜はパーティが続いた。これはフランスの文化らしい。

 

ロッコ到着2日目は、またマイクロバスに乗って別のホテルに。私が滞在していたホテルはブティック系のホテルで、会議があったのはカンファレンス施設を持つFairmontというホテル。ここはここで、ゴルフ場が併設されており、高級ホテルではあったが、私が泊っていたホテルの方がより高級感があった。

カンファレンス会場があったホテル

 

2日目は夕方にGuided tourという名の観光地引き回しがあった。これもめちゃくちゃ久しぶりで、会社がアレンジしたガイドが旧市街のマーケットに連れて行ってくれたは良いけど、ぼったくりの店ばかり案内された。私たちには自由時間がないから、観光のつもりでいくつかの商品は購入したけど、プライベートならこのお金はださないよな、というレベル。まあ、これも経験ということで。

旧市街のマーケット

スパイスのお店

2日目の夜はモロッコレストランでディナー。にしても、フランスの文化なのかモロッコの文化なのか、毎日ディナーが8時半頃から開始し、最初はダラダラと飲みながら、料理が出てくるのは9時半~10時、終わったら11時過ぎ、というのは疲れた。会議で頭が疲れているのに、大音量の中、大声で英語を使ってコミュニケーションし続けるには、体力と気力の両方が必要になる。

2日目のディナー会場。食事にありつく前に1時間くらい立ち飲みの時間がある…

蝋燭やライトをもった姉御たちがセクシーな衣装で踊るのを見てからじゃないとディナーが始まらない

そんな中、シドニーから参加しているニュージーランド人の同僚と仲良くなった。彼女とはチャットで以前からやり取りして、1度オンラインでミーティングしたことがあったけど、今回はるばるモロッコで会うことができた。なぜだろう、オーストラリアから来たと言うだけで、本当に親近感がわく。しかもこの彼女は大学生の時に関学に1年間留学していて、日本ともつながりがある。ちょっと嬉しかった。

 

会議も3日目、だいぶ慣れてきた。限界まで疲れていたが、この日のパーティーは恐るべし、アジェンダによると朝3時までとある。さすがに途中で帰れるだろうと思うけど、とにかく自分で交通手段をもたないので、すべては会社の言われるがまま。人質のようなものだ。

 

3日目の夜もまた9時近くからパーティー開始。この日はGala partyなので、オシャレしてこい、という指令がオフィシャルに出ている。私はパーティドレスを持っていないから、近所の古着屋でZaraの総レースの黒いロングドレスを1,500円で調達した。フランス人の同僚から素敵なドレスだね、って褒めてもらえた。つい、これは古着でたった10ユーロだったんだよ、とばらしてしまう私。

この日はセクシーお姉さんではなく、おじさんたちによる民族楽器の演奏を聴いてからじゃないと夕食にありつけないスタイル

連日タジン鍋、モロッコ料理はどれもおいしかった

いつもなら寝ている時間から始まるディナーも3日目となると慣れてくる。この日も夜の11時ごろまで夕食があり、いつのまにかダンスミュージックがかかり始めて、フランス人たちが踊りだした。これは帰り時!あらかじめ、早く帰ろうね、と言っていたオージーニュージーランド人)とガーナ人の同僚に声をかけてうまく抜け出し、12時ごろにホテルに着くことができた。朝の3時まで拘束される恐れもあったから、12時に帰れてほっとした。

食べて飲んでしゃべった後は朝まで踊るのがフレンチスタイル

 

最終日、少し遅めの9時に会議が始まったけど、本当に3時まで踊っていた人たちもいたみたいでビックリ。この会議に参加できるのは、シニアマネージャー以上のクラスなので、多いのは40代~50代、30代もいるけど20代はいない。それにしてもみんな元気すぎる。

 

3日間の会議とパーティでびっくりするくらい多くの人と話した。直接話した人の国籍を記録のためにメモしていたので、披露する。グローバル企業ってすごいわ。これでもまだ話ができていない人たちはいた(スペイン、タイ、マレーシアなど)。

 

フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、イギリス、ハンガリーウクライナ、ロシア、アメリカ、カナダ、ブラジル、アルゼンチン、エジプト、モロッコ、ガーナ、南アフリカタヒチ、中国、シンガポールインドネシア、オーストラリア、ニュージーランド、日本

 

中でも戦禍のウクライナの拠点から参加していた同僚との話はとても印象に残った。もちろん今は空を飛べないから、ミサイルに注意しながら、12時間かけて普通列車ワルシャワまで移動し、そこから飛行機で来たって。ちょうど彼女と話をした日が、ロシアの侵攻から1,000日目だと教えてくれた。もう日常になっていて、残っている人たちは今を生きることに集中しているという話も。サイレンが鳴ったらシェルターに避難する生活の中で、子供たちは学校に行って、会社は事業を続けている。

 

フランス企業では、誰を知っているかが仕事を進める上で最も重要と何度も聞かされてきた。人と人が知り合い、一緒に食べて飲んで話して(&踊って)交流し、その時にできたつながりで仕事が進んでいく。今の会社で私は業界団体の窓口もやっているけど、フランス商工会議所が毎月パーティばかりやっているのは何故なんだろう、と不思議だったが、その謎が解けた。人と知り合わないと仕事にならないのだ。これはアメリカ企業以上に合う合わないが分かれそうだなあ。私はそんなに嫌じゃないけど、夜型なのは勘弁してほしい…郷に入りては郷に従えだけど。

 

フリータイム、どうしてもフランス人はフランス人で、スペイン語圏はスペイン語圏で、中国語圏は中国語圏で固まるので、マイノリティの日本人である私は、ガーナやオーストラリアなど同じく少数派の英語圏の人たちと仲良くなった。あとは開催地のモロッコの人たちとも。そして1つの言語しか話せないのは、アメリカ人とオーストラリア人!海外に行っても当たり前のように母国語使いやがって、全くレイジーなやつらである(笑)。イギリス人の社員はフランス語を話せるし、カナダ人はみんなモントリオールから来ているのでバイリンガル。言わずもがな、欧州人は3つ〜4つ話せるのが当たり前の世界。英語ネイティブが少数派の環境だけど、共通言語である英語でみんな議論。私、もっと英語できるようにならなきゃなと、これも久しぶりに思った。

 

ロッコにいる間に、パリで雪が降ったらしく、やる気ないエールフランスが帰りの飛行機を飛ばさない恐れが出てきた。結局帰りの飛行機は3時間以上遅れて何とか飛んだけど、そんなときも同僚のフランス人はラウンジでワイン飲みながらダラダラしゃべっていて、遅れなんて何も気にしていないように見えた。恐るべし、フランス人。シャルルドゴールに着いたのは日付が変わる少し前。空港近くのヒルトンに宿を取っていたから助かった。やたらと豪華なモロッコのホテルから、おしゃれさを一切排除したビジネスライクなヒルトンに着いて、正直ホッとした自分がいた。

 

日本に帰る前に最後少しだけパリ観光したので、その様子は次の記事に。