先週金曜日に開催された2020年第1回目のHuman Geography学科のReading Group。時節柄Zoomでの開催。テーマはDecolonising geography「地理学の脱植民地化」。私の専門は地理学ではなく、たまたま指導教官の所属の関係でHuman Geography学科にいるので、内容に馴染みがない。日本語にしても何のことを言っているのか意味が分からないので、かなり不安だった。ちなみに参加者は学科内の教官とHDR(MPhilとPhD)合計8名。
Reading Groupの数日前にコーディネーターの人から2本の論文とディスカッションのための質問が7つ送られてきたので、畑違いの論文を頑張って読み込んで、質問に対する自分の答えを書き出す、という準備をしておいた。準備だけで3~4時間もかかってしまった。論文は2本ともイギリスの大学の人が書いているもので、私が専門外であることを差し引いても、文章が全体的に難しかった。知らない単語も30個以上出てきた。一文が長いのも分かりにくい(私の指導教官が見たら×をつけるだろう…)。例えば以下の一文。
My point here is that if the decolonial imperative urges a more cosmopolitan theoretical habitus within our discipline, that does not in itself attend to the ways that a hypothetically more cosmopolitan academic geographical canon will continue to play a regulative role in producing the exchange-value of geographical work.
出典:Jazeel, T 2017, ‘Mainstreaming geography’s decolonial imperative’, Transactions of the Institute of British Geographers, vol. 42, no. 3, pp. 334–337.
要点をまとめてくれているようだけど、何を言っているのかわからない。自分の専門以外の英語論文をスラスラ理解するだけの英語力がないことを思い知らされた。ただ、このReading Groupに参加して結果的にとても得るものが多かった。まだ自分の中でうまく整理しきれないけど、改めて思ったことや新しく感じたことを記してみる。
改めて思ったこと
①事前準備をしていれば英語のディスカッションも怖くない
今回、分からないなりにも課題の論文をちゃんと読み込んで(理解度は70%くらいだったけど)、準備されていた質問に対して自分なりの答えを書きだしておいた。そのおかげで、Zoom会議にもかかわらず、Reading Group内で皆が交わしている高速ネイティブ英会話の内容もほとんど理解できたし、一応議論にも参加できた。
②勉強会で発言しないことは議論に貢献していないことと同義
今回参加したReading Groupは何かを決めるような会議ではなく、テーマに沿って議論し、参加者それぞれ理解を深めるというのが目的(と私は考えた)。人の意見を聞いているだけでは、自分に得るものがあったとしても、他の参加者には何も貢献していない。Give and takeの考え方で、何かしら自分なりの見解を述べるのがマナーであると考えている。今回自分も含めて8名が会議に参加。英語がノンネイティブ(レベル)なのは私の他もう一人のアジア系学生。必然的にディスカッションの会話スピードはネイティブ標準となる。言いたいことがどんどん他の参加者に言われてしまい、途中でかなり焦ってきたけど、なんとかまだ出ていない意見、ノンネイティブの立場でしか言えないことを発言できた。発言している途中で、オージーのPhD学生がZoom機能のThumbs up(いいね!)を押してくれたのがうれしかったし、発言後もそのポイントがしばらく議論された。
③オンライン会議では会話の間合いをはかるのが難しい
Face to faceの会議であれば、なんとなく発言のタイミングをはかることはできる。オンライン会議ではそれがとても難しくなる。今回は内輪の勉強会なのでそれぞれ顔見せして話をしていたけど、それでも難しい。「今だ!」と思ってもネイティブ話者のスピードに負けてしまう。ある意味、会議がしーんとなる時間がないのは良いことだけど、8人という大人数が参加するディスカッションで、自分のための発言の時間をうまく見つけるにはまだ修行が必要だ。
新しく感じたこと
④英語での知識の創造について
今回、Decolonising geographyというテーマを扱った論文では、Anglophones(英語話者)たちにより非英語話者の生活/文化やその地域(例えば植民地化されていた地域)に関する知識が創造されており、そのこと自体がOngoing colonisationである、という見解が述べられていた。このポイントにはちょっと考えさせられた。以前書いたように、私の研究テーマでは日本人の学者が書いた英語論文はあまり見当たらない。でも欧米と日本の状況を両方知るようになった自分としては、決して日本が遅れているわけではない(欧州や米国とは観点が違う)、という感触を持っている。当然、日本には日本語で書かれた知識が蓄積されている。でもそれは、Anglophoneの学者たちには知られていない。知られていないので、無いものとして扱われている。そういう意味では日本の事例に対するOngoing colonisationは起きていないが、「グローバル」という文脈では結局欧米人の理論にColoniseされていると言っても過言ではない。
課題の論文では、Anglophonesがユニバーサルな知識創造(knowledge production)を植民地化している現状をどのように脱却するか、といった課題提起をしていたが、そもそもAnglophonesが作り出している知識がユニバーサルと考えることが正しいのか?誰もが自分のレンズを使って世の中を捉えていると認識すべきではないのか?とも思った。このことをAnglophonesであるオーストラリア人たちにぶつけてみたら、特に反論はなかった。ただ、実態として英語が世界共通言語となっている中では、結局英語での知識創造に参加することでしか多くの人に、「グローバルに」知られることがない、というジレンマがある。
⑤研究の対象地域について
上記のように考えると、私の研究対象は日本にした方が良いのかな、と迷ってきてしまった。当初、特に日本に絞った研究にするつもりはなかったが、あまり日本について英語で書かれたものがない中では、日本の様子をまとめてみるのも良いかもしれないとも思う。ただ、それはどちらかというと研究の目的がアウトプット思考になる。私はもともと自らの学びを深めるということも今回のPhD留学の軸にしているため、そう簡単には決断できない。今年いっぱいくらいは悩む猶予があるのでもう少し考えてみたい。
そういえば研究テーマに関しては、オーストラリアにいると日本の状況を聞かれて、日本の人からはオーストラリアの状況を聞かれる。当たり前のことかもしれないけど、両方知っていないとな、と考えさせられる。そうすると比較研究になるのか?でもオーストラリアと日本を比較してもなあ… 先行研究のレビューで理論の整理は少しずつできてきたけど、まだまだ自分の研究テーマが煮詰まっていないということに気づかされた。このReading Groupの続編は今週金曜日にある。また難しい論文を読まないといけない…