40代からの博士課程留学

41歳でオーストラリア・メルボルンで博士課程留学(社会学)を始めた自分、現地小学校に通う子供のこと、家族での海外生活などを綴る。2023年3月帰国、11月に博士号取得。現在は東京にある外資系企業で勤務。

私の留学ヒストリー

今回の博士課程の留学が実現すれば、人生で5回目の留学になる。これは人と比べて多いのか?おそらく多いと思う。どんな留学をしてきたか、一度振り返ってみたい。

 

1回目の留学

タイプ:語学留学

時期:高校2年生の夏休み

期間:1か月

場所:イギリス(コベントリー)

16歳のとき人生初めての海外が夏休み1か月を使って行ったイギリス留学。当時通っていた英語教室の先生が何名かの生徒を連れて行ってくれた。10代で行く海外は新しいことばかりで刺激しかない。行きの飛行機でロシアの上を飛んでいるだけで興奮したことを覚えている。この飛行機の下には、私と全然人生が交わらない人たちが暮らしているんだ、と思いながら外を見ていた。語学学校はコベントリーという街にある専門学校の中にあった。印象的だったのは、各国から来ていた人たちとの交流。片言の英語でヨーロッパやアジアから来ている人たちと話ができたことに感動した。ホームステイはおばあさんの一人暮らしの家で、シャワーは1日おきにしてくれと言われたり、食事がいつも冷凍食品やレトルトだったり、ハエがたくさん飛んでいたりしたが、世界にはいろいろな人がいるんだ、と思ってそんなに気にならなかった。大人になったら英語をもっと話せるようになりたい、と思った原点。

 

2回目の留学

タイプ:語学留学

時期:大学2年生の夏休み

期間:1か月

場所:オーストラリア(ブリスベン

晴れて大学に入学し、いよいよ海外への第1歩。まずはアルバイトでためたお金を使って夏休みに語学留学に行くことにした。まだインターネットがそんなに発達していない時代、大学生協に並んでいたパンフレットの中から、予算内に収まり、かつ都会でも田舎でもなさそうなブリスベンにピンときた。人生初めてのオーストラリア。それまではイギリスかぶれだったが、一気にオーストラリアのファンになった。まだまだ英語のレベルは低かったが、イギリスの時とは違いホームステイ先が絵にかいたように良い人たちだったり、語学学校で出会った日本人のワーホリの人たちとも仲良くなり、イギリスに行った時のようなaway感はあまり感じなかった。週末のエクスカーションで豊かな自然を見て、もっとオーストラリアを知りたい、オーストラリアに住んでみたい、と強く思った。(その半年後、春休みにバックパックを背負ってオーストラリアの半周を回った。)

 

3回目の留学

タイプ:交換留学

時期:大学3年生と4年生の間

期間:1年

場所:オーストラリア(ブリスベン

学部の時に通っていた日本の大学の協定校がブリスベンにあった。交換留学に行けば1年間オーストラリアに住んで、英語も上達できると思い、情報収集して申し込み。当時地方の国立大の農学部に在学しており、自分の周りには留学する人は少なく、私が農学部初の交換留学生となったため、事務の方も分からず戸惑っていたことをよく覚えている。留学先ではキャンパス内にある大学の寮に住んだ。オーストラリア人だけでなく色々な国から来た人たちとすぐに仲良くなり、毎日楽しかった。英語力がいまいちだったため、留学先の大学事務からは、単位取得ではなく聴講生として登録するように、と言われてしまったのが悔しかった。その後テストで平均的な点を取り、事務のオフィスにそのテストの結果を持参して、聴講生ではなく単位取得できる留学生として認めてくれ、と掛け合って、無事単位取得生として登録し直してもらったことを覚えている。ここでは何でも自分から主張しないといけない、正しい主張であれば何とかなることもある、ということを学んだ。当時の英語のレベルは、英検準1級程度。実際に取得した成績はあまり良くなかった(が落ちはしなかったのでよしとする)。

 

4回目の留学

タイプ:大学院留学(修士

時期:大学学部卒業後

期間:1.5年

場所:オーストラリア(アデレード

自分が勉強したい分野に目覚め、その分野は日本では当時はまだメジャーではなかったことから、大学卒業後はできれば海外の大学院でその分野をきちんと勉強したい、と思っていた。交換留学と異なり費用もかさむため、ロータリー財団の奨学金に申し込み、ありがたいことに受領することができた。Rotary Ambassadorial Scholarshipsというもので、2年間でUS$24,000が支給される制度。当時、アメリカドルとオーストラリアドルの換算レートが今とは全然違い、アメリカドル1ドルが、ほぼオーストラリアドルの2ドルに相当した。このため、1年間でUS$12,000がA$20,000以上となった。オーストラリアの大学の学費もまだ安く、A$10,000/年程度だったため、生活費含め奨学金でぎりぎり賄えた。ロータリーの奨学金のルールで、一度長期滞在したエリアには留学できない、となっていたため、オーストラリアに行く場合は、南オーストラリア州西オーストラリア州の大学なら許可する、と言われ、以前バックパック旅行した時に心が引かれたアデレードに行くことにした。

 

修士の1.5年間は好きな勉強ができて充実していたが、英語のレベルに悩まされた。最初の数か月は授業で英語のシャワーを浴び、大量の英語文献を読み書きすることで、毎日ひどい頭痛だった。気楽な交換留学とは違い、一つ単位を落とすと余分にお金がかかる、周りは就職して社会人をしている中で、絶対に学位を取らないと日本に帰れない、というプレッシャーを自分にかけていた。数か月後、独り言まで英語になったり夢を英語で見るようになった(ただし中途半端な英語)。最後の半年、修士論文を書いている際は毎日鼻血がでて、いつ寝たかもわからないくらいの生活になり、帰国する飛行機に乗る日の朝まで論文に取り組んでいた。このとき自分の力を限界まで使って取り組んだと自信を持って言える。興味があることに一生懸命取り組んだ結果、英語力はネイティブまではいけないが、ネイティブの学生からエッセイのクオリティにアドバイスが欲しい、というリクエストを受けるなど、自分でも驚く反応があった。

 

この分野の勉強をもっと継続したい(博士課程に行きたい)と思ったが、年齢が20代半ばになっており、仕事をしていないことに不安を覚えていた。一度日本に帰国して、この分野で一人前に稼げるようになってからにしよう、と決心。それから、自分の専門分野で安定して稼げるまでキャリアを構築したり、その過程で結婚、出産、育児などをしているうちに、あっという間に15年経ち、40歳になってしまった。そろそろ老眼も始まって文献が読みづらくるのでは、とか会社の中ですでに管理職になってしまったことなどもあり、もう少し早く大学に戻るという選択肢はなかったのか自問してみたが、やっぱり今ではない時期にこの行動を起こすのはどこかしらに無理があった。そう考えると今が自分にとって一番良いタイミングだと思える。

 

このタイミングを逃すと、いろいろな状況がまた変化をし始めて、人生の中でもう一度チャンスが来るかどうかがわからない。また英語漬けになり、15年前と比べて体力も衰えた中で大量の読み書きに頭痛がする日が来ると思うと正直少し躊躇してしまうが、それ以上に新しい生活にわくわくしている。